和歌祭の創始当初は、ほかの東照宮祭礼と同じように八乙女(やおとめ)と神楽男(かぐらおとこ)が出ていた。しかし、江戸時代前期からそれらに代わって「神子(みこ)」が登場するようになった。この神子は、『紀伊続風土記(きいぞくふどき)』1巻(天保10年(1839))に「神巫(かんなぎ) 後藤吉頭 六石」と記され、東長町に藩から屋敷を与えられた専業の巫女であった。東長町付近には大正時代まで「神子池」が存在していた。この家の所在は現在不明であり、明治時代以降は和歌浦の女性が巫女として渡御行列に参加している。