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1.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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2.打鉦 うちがね |
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3.神旗 じんき |
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4.棒振り ぼうふり |
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5.獅子 しし |
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6.鉾旗 ほこばた |
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7.総奉行 そうぶぎょう |
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8.総奉行付 そうぶぎょうつき |
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9.腰元 こしもと |
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10.伶人 れいじん |
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11.巫女・童子 みこ・どうじ |
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12.左大臣・右大臣 さだいじん・うだいじん |
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13.御幣 ごへい |
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14.御唐櫃・御榊 おんからびつ・おさかき |
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15.賽銭箱 さいせんばこ |
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16.一番摺鉦・二番摺鉦 いちばんすりがね・にばんすりがね |
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17.太鼓 たいこ |
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18.御神輿 おみこし |
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19.女子神輿 じょしみこし |
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20.子供神輿 こどもみこし |
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21.御所神輿 ごしょみこし |
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22.宮司 ぐうじ |
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23.神官 しんかん |
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24.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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25.相撲取 すもうとり |
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26.連尺・子供連尺 れんじゃく・こどもれんじゃく |
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27.団扇太鼓 うちわだいこ |
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28.餅花踊 もちばなおどり |
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29.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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餅搗踊 もちつきおどり |
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30.餅搗踊 もちつきおどり |
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30-1.臼曳台 うすひきだい |
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30-2.餅手合 もちてあわせ |
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30-3.杵踊 きねおどり |
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30-4.囃子方 はやしかた |
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30-5.餅花傘 もちばなかさ |
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31.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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32.面被 めんかぶり |
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33.舞姫 まいひめ |
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34.献花台 けんかだい |
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35.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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36.傘鉾 かさほこ |
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雑賀踊 さいかおどり |
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37.雑賀踊 さいかおどり |
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37-1.忠棒 ただぼう |
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37-2.大太鼓 おおだいこ |
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37-3.法螺吹 ほらふき |
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37-4.拍子鉦 ひょうしがね |
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37-5.笛吹 ふえふき |
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37-6.請棒 うけぼう |
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37-7.笹羅踊 ささらおどり |
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37-8.雑賀一族 さいかいちぞく |
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38.薙刀振 なぎなたふり |
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39.武者 むしゃ |
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40.甲兵 こうへい |
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41.母衣 ほろ |
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42.行列奉行 ぎょうれつぶぎょう |
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43.唐人 とうじん |
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44.唐船 とうぶね |
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45.三道具 みつどうぐ |
正保3年(1646)に住吉如慶(じょけい)が描いた「紀州本東照宮縁起」にはありとあらゆる芸能が描かれている。そこにはさまざまな山車が描かれている。そのなかで現存唯一の山車が室町時代に流行した唐物様(からものよう)がモデルとなった山車、唐船である。唐船は元和8年(1622)の「次第書」で60人の「ミなと町」(湊)の民衆が「舟水主歌」を太鼓、法螺貝、小鼓で奏しながら渡御行列に参加していたことが記されている。
和歌祭には江戸時代、この唐船とは別に紀州藩御船手方(おふねてかた)が海上に出す関船(せきぶね)なども出され、御船歌を歌っていた。この関船と唐船がいつしか一緒になり、唐船も紀州藩御船手方が担うようになり、御船歌を歌うようになる。これは御船手方の本拠地が湊にあったことも関係していると考えられる。御船手方は紺地に白大格子(おおごうし)の長法被を纏い、和歌の浦や紀伊国各地を讃した御船歌を合唱しながら、唐船を曳いていた。明治時代に入っても御船手方の末裔やその友人たちによって受け継がれていた。しかし、和歌祭が商工祭に変化したことなどから、昭和55年(1980)に唐船だけを残して御船手方所縁(ゆかり)の人たちの参加が途絶え、御船歌も途絶えてしまった。
和歌山県教育委員会の調査により、かつての音源の発見、30年前までの伝承者との出会いなどさまざまな偶然が重なり、平成22年(2010)年5月、御船歌は30年ぶりとなる復興を遂げた。復興を遂げた御船歌には「長唄(ながうた)」「端唄(はうた)」「せり唄」「やれ節」がある。そのうち、「長唄」は藩主の前で歌う特別な歌であった。そのため、かつての伝承者も歌えない難曲であったが、前年の御船歌復興を聞きつけたさらなる伝承者との出会いによって、平成23年「長唄」のひとつである「あめふり」が復興している。
母衣は元和8年(1622)の「次第書」には「ねり 三拾端(さんじったん)の大幌(おおほろ)と記され、長刀振りなどとともに徳川家康の御用を勤めた京都の政商、茶屋四郎次郎清延の四男で文禄2年(1593)生まれの茶屋小四郎が出していた。当時は30着分の重量のある母衣が渡御行列に加わっており、壮観なものであったことが考えられる。この他、御坊町によって赤母衣が3人出されていた。母衣は江戸時代初期の祇園祭(ぎおんまつり)にも登場しており、長刀振や鎧武者とともに武者風流のひとつとして考えられる。
現在、和歌祭には紅白の母衣が登場している。江戸時代中期から法被に化粧回しの出で立ちの奴姿の人物が背負う白母衣が登場する。白母衣は「孔雀舞(くじゃくまい)の所作(しょさ)」を舞っていたことが文化9年(1812)の『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』に記されており、所作の芸能化が進んだことが考えられる。現在では、大きな白母衣とすこし小ぶりな赤母衣、そして子供による小さな母衣が行列に参加し、「ショモ、ショモ(所望、所望)」という掛け声ともに母衣を左右に3回ずつ舞わしている。和歌祭の午前中には和歌浦の各家を廻り門付けも行っている。
現在、和歌祭の薙刀振は、「前回し」を基本として「肩回し」、「うぐいす谷渡り」といった10を超える技を組み合わせた連続技が行なわれている。和歌祭の芸能のなかでもっとも修練を必要とする芸能となっている。
薙刀振は元和8年(1622)の「次第書(しだいしょ)」に「壱人 長刀(なぎなた)振り」として登場する。この時の長刀振りは母衣などとともに徳川家康の御用を勤めた京都の政商、茶屋四郎次郎清延の四男で文禄2年(1593)生まれの茶屋小四郎が出していた。また正保3年(1646)の「東照宮縁起絵巻」にも黒い陣羽織(じんばおり)に裁付袴(たっつけばかま)を着た人物が長刀を天高く投げる姿が描かれている。しかし、寛文5年(1665)前後の「和歌御祭礼御増書」の長刀振りは北新町が出しており、いち早く茶屋小四郎の手から離れた芸能となっていた。
薙刀振は江戸時代に傘鉾を中心として踊られていた和歌祭では雑賀踊の忠棒と請棒に類似する棒振りなどとの関連が近年指摘されており、滋賀県のサンヤレ祭(守山市)やケンケト祭(竜王町)の長刀振など、近畿各地でも類似の芸能との関係が注目されている。江戸時代中期以降の和歌祭の長刀には柄部の両端には房が付けられ、武芸から芸能化が進んだものと考えられる。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
雑賀踊は傘鉾(江戸時代には笹羅踊の後方)を先頭に甲冑(かっちゅう)を着し、スリザサラを刀と鞘に見立てて雑賀衆を表した笹羅踊、そして鬼の面を被り、棒を振る忠棒と請棒、そして華やかな衣装を着た入れ子が叩く大太鼓や鉦、そして法螺貝がつく。
雑賀踊は室町時代後期から畿内を中心に流行していた傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列にアレンジしたものだと考えられる。雑賀踊にはさまざまな伝承がある。ひとつは笹羅踊のスリザサラを刀に見立てて、天正5年(1577)に鈴木孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を撃退し、戦勝祝の踊りとするものである。そして、もうひとつは天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったとする2つの伝承である。
和歌祭が創始された元和8年(1622)に雑賀踊が渡御行列に出された記録はないが、寛永12年(1635)に徳川家光が雑賀踊を上覧していることや寛文5年(1665)の和歌祭縮小令が出された際にも残されたことから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられる。
現在、雑賀踊は和歌浦サッカークラブの少年たちが笹羅踊を踊り、また忠棒や請棒などは保存会青年部によって踊られている。とくに忠棒と請棒は、演じ手が自ら面を打ち、毎月1回の練習を行なっている。
現在の面被は地元では「百面(ひゃくめん)」と呼ばれ、高下駄に華美な直垂(ひたたれ)と陣羽織を着て、傘のついた杖や団扇、または振るとガラガラとなる鳴り物をもった人物が歌舞伎風の化粧をして頭上に面をつけて渡御行列に加わっている。この面被は渡御の道中で子供をみつけると鳴り物を鳴らして子供たちを驚かせている。(和歌浦では泣いた子供は健康に育つといわれている。)
しかし、この面被の化粧や傘などの出で立ちは、明治時代から今日にいたる過程のなかで流行したものであり、江戸時代の面被とは多少姿を異にする。江戸時代は全員が面で顔を覆い、翁として使用された三光尉(さんこうじょう)や黒式尉(こくしきじょう)を先頭に扇や鈴、または杖などを手にして練り歩いていたようすがさまざまな屏風や絵巻物に描かれている。この面被で使われてきた仮面は鎌倉時代から近代にかけて作られた能面・狂言面・神楽面など98面(うち残欠分1面)からなる、全国的にもまれな大仮面群である(うち96面は和歌山県指定文化財、残り2面は指定後に発見)。その構成は多様で、神事で使用されたと思われる仮面や、能面・狂言面、神楽面、鼻高面が混在している。これら貴重な古面のなかには面裏に「方廣(かたひろ)作」という朱字銘を持つ室町時代の仮面7面(猿楽で使用した古面か)のほか、江戸時代初期の有力な面打である天下一友閑(てんかいちゆうかん)(出目満庸(でめみつやす))の焼印を持つ能面7面を含む、桃山~江戸時代の優れた能面・狂言面が含まれている。
面被は、元和8年(1622)の和歌祭創始から登場している。寛文5年(1665)の和歌祭の縮小令でも面被は具足着と雑賀踊とともに残された芸能であった。先頭に立つ翁面は神の化身とする説もある。面被は江戸時代初期の和歌祭では非常に重要視された芸能であったことが考えられる。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。
連尺は反物を上に積んだ櫃を連尺で担ぐ行商人の出で立ちをした仮装行列のひとつである。連尺の和歌祭での登場は寛文5年(1665)前後の「和歌御祭礼図屏風」である。また同時期の「和歌御祭礼御増書(わかごさいれいおますがき)」には「一、連尺 五人/右茶屋より出ス」と記されているため、徳川家康の御用を勤めた京都の政商、茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)の四男で文禄(ぶんろく)2年(1593)生まれの茶屋小四郎(ちゃやこしろう)が出していた。連尺は寛文5年以降、男性や若衆、そして女装の男性などさまざまな姿で絵図に登場する。明治時代以降は傘をもち、クルクルと廻す所作を行なっているが、江戸時代には連尺が傘を持っている姿は絵図には描かれていない。そのため、この所作はなかったと考えられる。
現在では和歌浦在住の大人2人の「連尺」と小学生による「子供連尺」が行列に参加している。
相撲は古代から相撲節会(すまいのせちえ)と称され、端午(たんご)の節句の折には宮中をはじめ、多くの祭礼で行なわれてきた芸能である。
和歌祭でも御旅所の神前で祭礼創始当初から奉納されてきた。この奉納相撲は、祭礼奉行(家老)朝比奈惣左衛門(あさひなそうざえもん)の統轄下に、行事の吉田追風(よしだはやて)や駿河から付き従った相撲取がいたことが考えられる。この当時は渡御行列には加わっていなかった。しかし、江戸時代後期には「在・町」すなわち城下町と藩領村々に居住する相撲取が御旅所での奉納に加えて、渡御行列にも加わるようになっていた。
現在は和歌山県相撲連盟に所属する県下のアマチュア力士が渡御行列に加わり、土俵入りを披露している。
和歌祭をはじめとする東照宮祭礼は天海が山王神道(さんのうしんとう)をもとに創出した山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって行なわれる。和歌祭の渡御行列では、江戸時代にはこの神道をもとにして東照大権現、山王権現(さんのうごんげん)、摩多羅神(またらじん)の3基の神輿が出されていた。しかし、明治4年(1871)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、山王権現と摩多羅神の神輿はほかの神社へと移されてしまう。その後、東照大権現の神輿1基のみでの祭礼が行なわれていたが、近年御所車(ごしょぐるま)をつけた御所神輿や女性だけで担ぐ女子神輿、そして和歌浦小学校の小学生によって担ぐ子供神輿が和歌祭に加わっている。
和歌祭をはじめとする東照宮祭礼は天海が山王神道(さんのうしんとう)をもとに創出した山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって行なわれる。和歌祭の渡御行列では、江戸時代にはこの神道をもとにして東照大権現、山王権現(さんのうごんげん)、摩多羅神(またらじん)の3基の神輿が出されていた。しかし、明治4年(1871)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、山王権現と摩多羅神の神輿はほかの神社へと移されてしまう。その後、東照大権現の神輿1基のみでの祭礼が行なわれていたが、近年御所車(ごしょぐるま)をつけた御所神輿や女性だけで担ぐ女子神輿、そして和歌浦小学校の小学生によって担ぐ子供神輿が和歌祭に加わっている。
和歌祭をはじめとする東照宮祭礼は天海が山王神道(さんのうしんとう)をもとに創出した山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって行なわれる。和歌祭の渡御行列では、江戸時代にはこの神道をもとにして東照大権現、山王権現(さんのうごんげん)、摩多羅神(またらじん)の3基の神輿が出されていた。しかし、明治4年(1871)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、山王権現と摩多羅神の神輿はほかの神社へと移されてしまう。その後、東照大権現の神輿1基のみでの祭礼が行なわれていたが、近年御所車(ごしょぐるま)をつけた御所神輿や女性だけで担ぐ女子神輿、そして和歌浦小学校の小学生によって担ぐ子供神輿が和歌祭に加わっている。
和歌祭をはじめとする東照宮祭礼は天海が山王神道(さんのうしんとう)をもとに創出した山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって行なわれる。和歌祭の渡御行列では、江戸時代にはこの神道をもとにして東照大権現、山王権現(さんのうごんげん)、摩多羅神(またらじん)の3基の神輿が出されていた。しかし、明治4年(1871)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、山王権現と摩多羅神の神輿はほかの神社へと移されてしまう。その後、東照大権現の神輿1基のみでの祭礼が行なわれていたが、近年御所車(ごしょぐるま)をつけた御所神輿や女性だけで担ぐ女子神輿、そして和歌浦小学校の小学生によって担ぐ子供神輿が和歌祭に加わっている。
江戸時代の和歌祭では伶人は「楽人(がくにん)」と呼ばれ、御旅所での神遊びとして舞楽や雅楽を神前で奏でる役割を担っていた。東照宮祭礼でも日光東照宮や名古屋東照宮などの祭礼で奉納されていた。とりわけ日光東照宮では家康が当初埋葬された地の久能山麓(くのうさんふもと)の有度浜(うどはま)付近に伝わる民間舞踊から国風歌舞(くにぶりのうたまい)に発展した「東遊(あずまあそび)」をはじめとするさまざまな舞楽が奉納されていた。和歌祭では当初舞楽が行なわれていなかった。しかし、寛永7年(1630)年に京都から楽人を招いてはじまった名古屋東照宮の祭礼の舞楽奉納が、尾張藩主徳川義直が紀伊藩主の徳川頼宣に相談の上で決めたことなどから、和歌祭の舞楽も寛永7年以前に創始されたのではないかとする見解が出されている。和歌祭の舞楽を奉納していた楽人も京都をはじめとするいわゆる三方楽所(さんぽうがくそ)(宮中方(京都)、南都方(奈良)、天王寺方(大阪))から招かれた楽人であったことが考えられる。ただし、江戸時代後期になると加茂(海南市下津町)など、地元の楽人が参加するようになっていった。
現在、和歌祭の御旅所での舞楽は途絶えてしまっている。しかし、渡御行列には昭和28年(1948)結成の和歌山雅楽会が西川秀紀宮司の呼びかけにこたえ、三管(笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき))と太鼓で道楽(みちがく)として平調「越殿楽(えてんらく)」と「五常楽(ごじょうらく)」を奏している。