江戸時代の和歌祭では伶人は「楽人(がくにん)」と呼ばれ、御旅所での神遊びとして舞楽や雅楽を神前で奏でる役割を担っていた。東照宮祭礼でも日光東照宮や名古屋東照宮などの祭礼で奉納されていた。とりわけ日光東照宮では家康が当初埋葬された地の久能山麓(くのうさんふもと)の有度浜(うどはま)付近に伝わる民間舞踊から国風歌舞(くにぶりのうたまい)に発展した「東遊(あずまあそび)」をはじめとするさまざまな舞楽が奉納されていた。和歌祭では当初舞楽が行なわれていなかった。しかし、寛永7年(1630)年に京都から楽人を招いてはじまった名古屋東照宮の祭礼の舞楽奉納が、尾張藩主徳川義直が紀伊藩主の徳川頼宣に相談の上で決めたことなどから、和歌祭の舞楽も寛永7年以前に創始されたのではないかとする見解が出されている。和歌祭の舞楽を奉納していた楽人も京都をはじめとするいわゆる三方楽所(さんぽうがくそ)(宮中方(京都)、南都方(奈良)、天王寺方(大阪))から招かれた楽人であったことが考えられる。ただし、江戸時代後期になると加茂(海南市下津町)など、地元の楽人が参加するようになっていった。
現在、和歌祭の御旅所での舞楽は途絶えてしまっている。しかし、渡御行列には昭和28年(1948)結成の和歌山雅楽会が西川秀紀宮司の呼びかけにこたえ、三管(笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき))と太鼓で道楽(みちがく)として平調「越殿楽(えてんらく)」と「五常楽(ごじょうらく)」を奏している。