母衣は元和8年(1622)の「次第書」には「ねり 三拾端(さんじったん)の大幌(おおほろ)と記され、長刀振りなどとともに徳川家康の御用を勤めた京都の政商、茶屋四郎次郎清延の四男で文禄2年(1593)生まれの茶屋小四郎が出していた。当時は30着分の重量のある母衣が渡御行列に加わっており、壮観なものであったことが考えられる。この他、御坊町によって赤母衣が3人出されていた。母衣は江戸時代初期の祇園祭(ぎおんまつり)にも登場しており、長刀振や鎧武者とともに武者風流のひとつとして考えられる。
現在、和歌祭には紅白の母衣が登場している。江戸時代中期から法被に化粧回しの出で立ちの奴姿の人物が背負う白母衣が登場する。白母衣は「孔雀舞(くじゃくまい)の所作(しょさ)」を舞っていたことが文化9年(1812)の『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』に記されており、所作の芸能化が進んだことが考えられる。現在では、大きな白母衣とすこし小ぶりな赤母衣、そして子供による小さな母衣が行列に参加し、「ショモ、ショモ(所望、所望)」という掛け声ともに母衣を左右に3回ずつ舞わしている。和歌祭の午前中には和歌浦の各家を廻り門付けも行っている。