餅搗踊は元和8年(1622)の和歌祭の創始から出されていた練り物で、『紀州本東照宮縁起』(正保3年(1646))には、餅荷(もちにな)い、餅花、烏帽子(えぼし)着、「餅搗踊」(杵持ち、臼引き、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓)、餅花傘鉾がまとまった餅搗踊として描かれている。寛文5年(1665)の縮小令で翌年からは出されなくなるが、寛政12年(1800)に、『紀伊国名所図会』の編述者である高市志友(たかいちしゆう)が再興した。再興された餅搗踊も、烏帽子着を先頭に順礼踊がもととなる団扇太鼓、餅花踊、「餅搗踊」(臼曳、杵持ち、手合せ)、囃子方(笛、太鼓、鼓、摺り鉦)、餅花傘鉾という多種目の演目が複合的に構成されたものであった。そのうち囃子方は高齢化と後継者不足のため、昭和50年代以降、「ヤーオー、インヤー、アーオー」の掛け声と締太鼓を残してなくなってしまった。しかし、平成24年、宝塚歌劇団郷土芸能研究部の映像をもとに、囃子方が復興されている。