現在の面被は地元では「百面(ひゃくめん)」と呼ばれ、高下駄に華美な直垂(ひたたれ)と陣羽織を着て、傘のついた杖や団扇、または振るとガラガラとなる鳴り物をもった人物が歌舞伎風の化粧をして頭上に面をつけて渡御行列に加わっている。この面被は渡御の道中で子供をみつけると鳴り物を鳴らして子供たちを驚かせている。(和歌浦では泣いた子供は健康に育つといわれている。)
しかし、この面被の化粧や傘などの出で立ちは、明治時代から今日にいたる過程のなかで流行したものであり、江戸時代の面被とは多少姿を異にする。江戸時代は全員が面で顔を覆い、翁として使用された三光尉(さんこうじょう)や黒式尉(こくしきじょう)を先頭に扇や鈴、または杖などを手にして練り歩いていたようすがさまざまな屏風や絵巻物に描かれている。この面被で使われてきた仮面は鎌倉時代から近代にかけて作られた能面・狂言面・神楽面など98面(うち残欠分1面)からなる、全国的にもまれな大仮面群である(うち96面は和歌山県指定文化財、残り2面は指定後に発見)。その構成は多様で、神事で使用されたと思われる仮面や、能面・狂言面、神楽面、鼻高面が混在している。これら貴重な古面のなかには面裏に「方廣(かたひろ)作」という朱字銘を持つ室町時代の仮面7面(猿楽で使用した古面か)のほか、江戸時代初期の有力な面打である天下一友閑(てんかいちゆうかん)(出目満庸(でめみつやす))の焼印を持つ能面7面を含む、桃山~江戸時代の優れた能面・狂言面が含まれている。
面被は、元和8年(1622)の和歌祭創始から登場している。寛文5年(1665)の和歌祭の縮小令でも面被は具足着と雑賀踊とともに残された芸能であった。先頭に立つ翁面は神の化身とする説もある。面被は江戸時代初期の和歌祭では非常に重要視された芸能であったことが考えられる。