和歌祭の始まりは、江戸時代の元和8年(1622)からです。戦国と呼ばれた時代から遠くないせいか、現在でも行列の中にその頃の様子が伺える種目もあって、他のお祭のお渡り行列との違いを見ることができます。
紀州の人々により、全国に類を見ない祭として、誇りをもって受け継がれてきました。この伝統的なお祭を絶やさず、将来に伝承していこうと守っている和歌山の人々の文化意識の高さを示すお祭でもあるのです。
お祭の当日、陸上では紀州の武勇を示すものや紀州人の心意気を表現した行列が、神輿に従い、海上では御関船(おせきふね)を浮かべて、陸海あげてその日 に備えました。古くは、日本三大祭、紀州の国中第一の大祭と呼ばれていました。現在は交通機関の発達で御関船がなくなり、陸上での渡御だけになってしまい ました。
お祭の構成は当初、紀州徳川家が中心に、行列の各芸技種目のすべては「株」組織で構成されていて、それぞれの芸技おのおのが独立した型になっています。 その「株」が連合して祭の行列となり、そこに無礼講として土地の人々の得意とする芸技集団が行列の後に続いていました。各「株」は家臣団の個々が、名誉を かけて、その技術を代々、口伝によって継承されてきました。
今、武士の世が遠く去り、時の流れに抵抗しきれず、消えかかっている「株」、沈滞している「株」もあります。そして、受け継ぐ人々の職業も多種多様になったことも原因にあげることができます。
しかし、和歌山県の最大の年中行事のひとつとして欠かすことのできない神事として、心ある方々や地元経済を支える方々の後援によって、当初の姿に戻そうとする大きな力となっていることは見逃せません。
親が、そして先祖が残してくれた、この伝統行事の和歌祭を受け継ぐ要因は、紀州の次代を担う若い力に大いに期待がかけられています。